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王子ホールマガジン 連載
ピアノという仕事 Vol.7 

クリスティアン・ベザイデンホウト

ピアノという仕事王子ホールマガジン Vol.35 より

数ある西洋楽器のなかでもメジャーな存在といえば、ギターやフルート、ヴァイオリン、そしてなによりピアノだろう。だがピアノで食べている人間はそう多くない――ほとんどの場合は子供のころの『お稽古』で終わるものが、長じて生活の糧を得る手段となるまでに、どういった変遷をたどるのだろう。この連載では王子ホールを訪れる、ピアノを仕事とする人々が、どのようにピアノと出会い、どのようにピアノとかかわっているのかにスポットをあてていく。

今回登場するのは、5月にモーツァルト作品を2晩にわたって披露してくれるクリスティアン・ベザイデンホウト。フォルテピアノ奏者とはいってもモダンピアノでN響と共演もすれば、自在にチェンバロも弾きこなす才能の持ち主で、ヨーロッパではソリストとしても室内楽奏者としても引っ張りだこである。だがその多才さゆえに、どの道へ進むべきか迷ったこともあるらしい――


(c)Marco Borggreve

クリスティアン・ベザイデンホウト(フォルテピアノ)

1979年、南アフリカ生まれ。イーストマン音楽院を最優秀の成績で卒業し、チェンバロ、フォルテピアノ、通奏低音を学びつつ、欧米各地でバロック・オペラ公演の通奏低音奏者として経験を積む。21歳でブルージュ国際古楽コンクール(2001年)の第1位と聴衆賞を獲得、今日では世界の主要アンサンブルから頻繁に招かれており、ブリュッヘン、ホグウッド、ケラス、ムローヴァなど著名アーティストとの共演や音楽祭への出演も多数。09年からハルモニアムンディと長期的な録音プロジェクトを継続中。

 

Q はじめにピアノとの出会いについてお話しください。

クリスティアン・ベザイデンホウト(以下「ベザイデンホウト」) 私の祖母はベルリンで学んだこともある、とても優秀なピアニストでした。両親はその祖母にあやかって、子どもたちにピアノを習わせました。正直なところ、はじめはストレスが溜まりました――ピアノといういかめしい楽器の技術的な難しさの先にあるものがまるで見えず、おまけに初見ではまるで弾けなかったのです。とはいえ生活には音楽が欠かせませんでした。両親は膨大なレコードのコレクションを持っていて、いつも音楽をかけていました。ウィーンに生きた大作曲家が好きで、なかでもモーツァルトはお気に入りでした。ハイドンやベートーヴェンやモーツァルトなど、自分が大事にするようになったレパートリーの大半は家で聴いていた音楽ばかりです。いつの間にか潜在意識に刷り込まれていたんですね。
 最初についたピアノの先生はスパルタで信じがたいほど保守的で、レッスン室を恐怖と威圧感で満たしていました。その後1988年に一家で南アフリカからオーストラリアに移住し、そこで自分の音楽人生を決定的に変える人物と出会いました。ジュリー・エトヴェシュという女性で、音楽という特殊な人生を歩むうえで必要な道具を与えてくれたのは彼女なのです。

Q 最初はモダンピアノで勉強をはじめて、やがてフォルテピアノやチェンバロの演奏もするようになったそうですが、どういった経緯でこれらの楽器を弾くようになったのですか?


(c)Marco Borggreve

ベザイデンホウト モダンピアノは常に自分の勉強の中心にありました(ちなみにフルートもかなり真剣に勉強していまして、大学に入ってもしばらくは続けていました)。1991年、自分が12歳の時にモーツァルトの没後200年を記念するイベントが多く開かれたのですが、そのなかにフィリップスからリリースされたCD180枚組のモーツァルト全集がありました。これはまさに夢のような全集で、自分の中に録音技術への愛、そしてCD収集への情熱が芽生えました(録音を聴くというのは私にとって今でも大変重要な勉強と思索の時間となります)。
古楽、そしてピリオド楽器による演奏がどれだけエキサイティングなものかを明確に意識するようになったのはこの時期です。オーストラリアに住んでいた自分はジョン・エリオット・ガーディナーやフランス・ブリュッヘン、クリストファー・ホグウッド、フライブルク・バロック・オーケストラなどの新譜を、胸を躍らせながら待ち侘びていました。一般的なオーケストラや近代の鍵盤楽器の音響世界に慣れ親しんでいた自分も、彼らのレコーディングによって決定的に嗜好が変わりました。
忘れられない体験があります。ガーディナーの「J.S.バッハ:マタイ受難曲」の導入部の合唱を初めて聴いたときのことです。この新しい――そして同時にとても古い――音が、実に豊かな意味を持ち、感情を満たしてくれる。そのことがたいへんな感動とひらめきを与えてくれたのです。そして途方もない才能と冒険心と知識を併せ持ったアーティストが、壮麗なレパートリーの再評価を続けているこの世界の一部に、どうしても加わりたいと思いました。残念ながらオーストラリアでは歴史的鍵盤楽器に触れる機会がなく、ニューヨークのイーストマン音楽院に入学するまでその状態が続きました。イーストマンに入ってようやくアーサー・ハースのもとでチャンバロを、マルコム・ビルソンのもとでフォルテピアノを学び始め、その後素晴らしいリュート奏者であるポール・オデットに通奏低音の指導を受けるようになりました。

Q 2001年のブルージュ国際古楽コンクールで優勝したことがキャリアをスタートする大きなきっかけとなったようですが、プロとしてやっていく決意はどのタイミングで生まれたのですか?


(c)Marco Borggreve

ベザイデンホウト 今日ではコンクールに優勝したところで成功が保証されるわけではありませんが、ブルージュでの優勝は多くの扉を開いてくれました。この優勝がなければ自分の人生がどうなっていたか想像できません。実はこれ以前に2つのコンクール(どちらもモダンピアノ)に挑み、その両方で1次審査どまりだったので、だいぶへこんでいたんです。しかも、長い「自分探し」の果てのコンクール挑戦でした――古典派の作品をモダンピアノで弾き、時折フォルテピアノもいじる奏者になるべきか、バロックの世界にどっぷりと浸かって通奏低音の演奏とチェンバロ・ソロのレパートリーに身を捧げるべきか、それとも意を決してフォルテピアノのソリストになり、いつも自分のにとって一番身近だったレパートリーを演奏していくべきか。ブルージュのコンクールは、知らぬ間に自分の人生の岐路になっていたのです。この大会で成功しなかったらすっかり心が折れて、最終的な決断も変わっていたかもしれません。

Q フォルテピアノ、モダンピアノ、チェンバロという3種の楽器でソロも協奏曲も室内楽も演奏するという、今日最も器用な鍵盤奏者といえるのではないでしょうか。

ベザイデンホウト プロとしての活動の大部分はフォルテピアノが占めています。だいたい80%ぐらいがフォルテピアノで、残る20%がモダンピアノとチェンバロという具合です。以前はどちらかというとモダンピアノを敬遠していたのですが、理想的な共演者――こちらの気持ちを察してくれる指揮者と敏感に反応してくれるオーケストラ――との演奏を通じて、これが素晴らしく新鮮な体験になることを学びました。今年はピノック指揮シカゴ響とのベートーヴェン、ガーディナー指揮コンセルトヘボウ管とのモーツァルトが控えていて、いずれも心から楽しみにいます。
3種の楽器をすべて弾くというのは、技術的な観点からみて大きな課題でした。大学に入って2、3年の間に、私は何百という室内楽のリサイタルで演奏しました――昼間はバッハの通奏低音をチェンバロで弾き、その夜にはスタインウェイでシューマンを弾き、次の日にはフォルテピアノでモーツァルトを弾く……これほど異なる音響世界を行き来するのは困難を極めました。ですがこの修業時代を振り返ってみると、チェンバロとモダンピアノからとても価値のある教えを受けていたのだと気づかされます。チェンバロがアーティキュレーションやアゴーギクやニュアンスをいかに大切にしているかを知ったことは、大きな衝撃でした――スタインウェイに代表されるモダンピアノには音色やダイナミクスという面で大きな可能性がありますが、表現力豊かなチェンバロ演奏に不可決なアーティキュレーションへの飽くなきこだわりのようなものは見られません。その反対に、継続してスタインウェイを弾いてきたことでリリカルで心を揺さぶる演奏を志すにあたっての基礎ができましたし、こういったことすべてがフォルテピアノの演奏でも役立っているのです。フォルテピアノというと、チェンバロの後継者という歴史的な位置づけのことばかりが頭にある人が多く、音色の変化、トーンやテクスチュアの多彩さといった無限の可能性がまだまだ認知されていないような気がします。

Q 王子ホールではこの先もベズイデンホウトさんと様々な企画を実現したと考えています。当面はモーツァルトの予定ですが、それ以外のアイディアはありますか。


(c)Marco Borggreve

ベザイデンホウト 前回の王子ホール公演はとても素晴らしい思い出として残っています。というのもオーディエンスがこの特別な場所に愛着を持っているような、ちょうどウィグモア・ホールの持つ魔力と同じようなものを感じたのです。そんな場所でモーツァルトのピアノ作品を2晩にわたってご披露できるのは喜び以外の何物でもありません。モーツァルトは私が集中して取り組んでいるテーマですが、その他のプロジェクトについてもお話しさせていただきます。まずフライブルク・バロック・オーケストラとモーツァルトの協奏曲のチクルスを開始するというのがひとつ。初期の(もちろん小編成の)協奏曲など、王子ホールで演奏できたら最高でしょうね。またこの先大きなウェイトを占めてくるのがベートーヴェンのピアノ・ソナタです――これも王子ホールで演奏できたら大きな喜びです。今後はチェンバロ・ソロのリサイタルの回数をもっと増やしたいと考えていて、J.S.バッハだけでなく、J.K.ケルル、フローベルガー、ヘンデル、クープランなども積極的に弾いていくつもりです。それとバッハのチェンバロ協奏曲を、ライプツィヒのツィンマーマン・コーヒーハウスで演奏されていたような、1パート1人の弦楽アンサンブルと演奏できたら楽しいだろうなと思います。
ほかにも室内楽のプロジェクトがいくつかあって、マーク・パドモアとのシューマン歌曲、キャロライン・サンプソンとのリート・リサイタル、ジャン=ギアン・ケラスとのベートーヴェンのチェロ・ソナタ、そしてまだ未定ながらイザベル・ファウストやレイチェル・ポッジャーと共演する可能性もあります。

(文・構成:柴田泰正 写真:Marco Borggreve 協力:アレグロ・ミュージック)

【公演情報】
クリスティアン・ベザイデンホウトの世界 Vol.1、Vol,2
2012年
5月29日(火) 19:00開演(18:00開場)
5月30日(水) 19:00開演(18:00開場)
全席指定 各日6,000円、2公演セット券11,000円

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