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王子ホールマガジン 連載

クラシック・リスナーに贈る
ジャズ名盤この1枚

文・藤本史昭

王子ホールマガジン Vol.56 より

「ポーギー&ベス」マイルス・デイヴィス

 マイルス・デイヴィス(tp) ギル・エヴァンス(arr, cond) 他

 1958年6月22、29日/同年8月4日、19日
 ニューヨークで録音

 ジョージ・ガーシュインの『ポーギーとベス』を、「音楽史全体を通じて太文字で記されるべき作品」といったら大げさだと思われるでしょうか。しかし僕は、20世紀前半のアメリカにおいて黒人が置かれていた状況を、平易な、けれど迫真性に満ちた音楽に映し取ったこのオペラは、そこから呼び起こされる感動が混じりっけなしに真正であるという点において、プッチーニやヴェルディ、リヒャルト・シュトラウスのそれに比肩し得るものだと真剣に考えています。
 『ポーギーとベス』がどれほど強く人々の心にアピールしたか。それはこの中のいくつかの楽曲が、初演から1年もしないうちに多くのジャズ・ミュージシャンからカヴァーされ、またたく間にスタンダード化していったことからも明らかでしょう。そればかりか、しばらくすると、丸々1枚をこのオペラの楽曲で構成したアルバムも次々に登場するようになります。ゴージャスきわまりないエラ・フィッツジェラルド&ルイ・アームストロング版。端正なアンサンブルが室内楽を思わせるモダン・ジャズ・クァルテット版。クラヴィコードとギターのデュオが異色なオスカー・ピーターソン&ジョー・パス版。その中でも、ジャズ史に残る名盤として誉れ高いのが、ギル・エヴァンスのアレンジによるオーケストラに、マイルス・デイヴィスをフィーチャーした作品です。

 “帝王”というあだ名が示すように、マイルスは何事につけ自分が1番でいたい、ゆえに他者を全面的に認めることのない人でした。そんな彼がほとんど唯一、何の留保もなしに賞賛したのがギル・エヴァンスです。
 「オレたちは、はじめから気が合った。(中略)オーケストレーションをいっしょにきいていると、“マイルス、このチェロをきいてごらん。ほかにどんな弾き方ができると思うかい?”などといって、音楽について考えさせられた。音楽の中に入り込んで、普通なら誰にもきき取れないようなことを引きだしてくるんだ」(クインシー・トループ著/中山康樹訳「完本マイルス・デイビス自叙伝」)・・・・・・まあ、大絶賛ですね。予算の関係もあって(ギルの本領が発揮される大編成はとかくお金がかかりました)彼らの共演作は数えるほどしかありませんが、しかしそれはどれも、それまでのラージ・アンサンブルの概念を一新するものばかり。マイルスは生涯を通して、多岐にわたる表現形態を試みましたが、その中でもこのギルとのコラボレーションは、彼の芸術を理解する上で欠くことのできない分野といえるでしょう。

 で、アルバムの話です。企画が持ち上がった当時(1958年春)、『ポーギーとベス』は映画化が進み、また先述したカヴァー集も続々と作られ人気が再燃していました。本作の企画を提案したプロデューサーも、おそらくその人気にあやかろうとしたのでしょう。しかしマイルスとギルが作り上げた作品は、そんな思惑をはるかに超えるものでした。曲順はオリジナルから大幅に入れ替えられ、それぞれの楽曲は元のメロディーやハーモニーがわからなくなるほどに解体/再構築が施されました。ゆったりと情感たっぷりに・・・・・・という過去の慣例を覆して、快適なミディアム・テンポでクールに奏される〈サマータイム〉。幻想的かつ抽象的なハーモニーと繊細なトランペットのトーンが全体を覆い尽くす〈アイ・ラヴズ・ユー、ポーギー〉。モーダルな雰囲気が来たるべき大傑作『カインド・オブ・ブルー』を予感させる〈イット・エイント・ネセサリリー・ソー〉。
 要するにこのセッションは、マイルスとギルにとっての実験場であり、オペラ「ポーギーとベス」は彼らが新しい音を生み出すための“素材”だったのです。あるいはこれをきいたガーシュインは――このコンビが次に作った『スケッチ・オブ・スペイン』に対し原作曲者のロドリーゴが不平をもらしたように――「僕のあの音楽はどこに行ってしまったんだ!」と異議を唱えたかもしれません。
 しかし、もちろんマイルスとギルは、このオペラを軽んじていたわけではありません。あるインタビューでマイルスは、このセッションで1番苦労したトラックとして〈ベス、ユー・イズ・マイ・ウーマン・ナウ〉を挙げているのですが、その理由は「何度も出てくるこの歌詞を、そのたびに意味を違えてトランペットで表現しなければならなかったから」。この告白は、彼がこの曲、このオペラに並々ならぬ愛情を抱いていたことの証左にほかならないでしょう。
 原作に対する敬意と挑戦のギリギリのせめぎ合い・・・・・・クラシック曲のジャズ・アダプテーションはかくあるべしという傑作です。

著者紹介

藤本史昭/1961年生まれ。上智大学文学部国文学科卒。写真家・ジャズ評論家として活動。「ジャズ・ジャパン」誌ディスク・レビュアー。共著・執筆協力に『ブルーノートの名盤』(Gakken)、『菊地成孔セレクション~ロックとフォークのない20世紀』(Gakken)、『ジャズ名盤ベスト1000』(学研M文庫)などがある。王子ホールの舞台写真の多くは氏の撮影によるもの。
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