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王子ホールマガジン 連載
ピアノという仕事 Vol.17 

アンヌ・ケフェレック

ピアノという仕事王子ホールマガジン Vol.45 より

王子ホールにはこれまで3回出演し、「ショパンと彼が愛した大作曲家たち」、「光と神秘」、そして「近代パリの小品集」と毎回魅力的なテーマのプログラムを聴かせてくれたアンヌ・ケフェレック。教養を重んじる家庭に育ち、ソリストとして生きていく決意を固めた彼女は、『ピアニストである母』ならではの姿勢で我が子と接したという――

アンヌ・ケフェレック(ピアノ)

パリ生まれ。5歳よりピアノを学び、パリ音楽院卒業後、ウィーンでバドゥラ=スコダ、デームス、ブレンデルに師事する。1968年ミュンヘン国際音楽コンクールで審査員満場一致で優勝、翌年リーズ国際ピアノ・コンクールでも入賞を果たし、一躍ヨーロッパで注目を浴びた。これまでに世界の主要オーケストラ、著名指揮者と共演しており、室内楽でも当代一流の演奏家と共演している。CDはヴァージン、ミラーレ等のレーベルより数多くリリースされており、2013年の「サティと仲間たち」はディアパソン・ドール賞を受賞。最近では、日本で毎年開催される「ラ・フォル・ジュルネ」のメイン・ゲストとして大活躍している。フランス政府より芸術文化勲章オフィシエを受勲。

Q 音楽との出会い、ピアノとの出会いについてお話しください。

アンヌ・ケフェレック(以下「ケフェレック」) 母がピアノをかなり本格的にやっていたので、当然家にピアノがありました。両親はともに子供たちを芸術に触れさせるのは義務であると考えていたので、音楽を学ぶようになったのも自然な流れといえます。小さいころはとてもにこやかで情熱的な先生と、その娘さんに習っていました。そのおかげで私の中には音楽とはハッピーなものだという意識が根付いています。そしてピアニストになりたいという願望も小さいときから芽生えました。
 先生も両親も、私が音楽一辺倒になってしまわないように気を配っていました。通っていた学校でも一般教養と音楽以外の芸術に多くの時間が充てられていました。音楽とその他の学業のバランスは大事です。私たちは音楽家である前に人間ですから、人間として心と頭脳を育て、想像力を高めていかないと。文学や美術と音楽とのつながりを学ぶことも重要だと思いますよ。演奏の技術的な面ばかりに固執すると、一時的な成功は収められても、生涯を通じてプラスになるとは思えません。

Q 20歳ぐらいからコンクールに出場するようになりました。

ケフェレック 外国に旅行していろんな国のミュージシャンと出会いたいというのが動機でした。コンクールに出るとなると一定の期日までに決められたレパートリーを仕上げていく必要がありますよね。そのように明確な目的を持って勉強することが自分にとってプラスになるとも思いました。自分にとってはむしろ、観客を前にして演奏できる貴重な『コンサートの機会』でした。ミュンヘンでもリーズでも、自分が採点されているというよりも、多くの人に自分の演奏を聴いてもらっている、音楽を共有できているという感覚でしたね。とにかくその場にいることが嬉しかった。その姿勢が優勝につながったのでしょうね。審査員をすることが多くなると、演奏すること自体を楽しんでいる出場者とそうでない出場者がはっきりと分かるようになります。ですから自分が学生にアドバイスするときは、「自分が前後の出場者と比較されることを意識しないように。速く弾く必要もなければアピールする必要もない。自然体で演奏しなさい」って言います。

Q コンクールに優勝したことでソリストとしてのキャリアが拓けていきました。

ケフェレック 今となっては展開が早すぎたようにも思えます(笑)。勉強するのが好きだったから、その時間が少なくなってしまったことは少し後悔しています。もちろん文句はありませんよ、素晴らしい機会をいただいたわけですから。20歳か21歳のときに最初のレコーディングをして、エージェントがついて、自分が思い描いていたよりも早くプロとしての生活が始まりました。人によっては若い時期からキャリアプランを練っている人もいますが、私はそんなことは考えていませんでした。でも船を浮かべていたら風が吹いてきて、いつの間にか出帆してしまった(笑)。

Q コンサート・ピアニストとしての生活にはすぐに慣れましたか? それとも順応するまでに苦労はなさいましたか?

ケフェレック 苦労したことは確かです。なるべくじっくりレパートリーを拡げられるように努力はしましたけど。30歳ぐらいになって、どのようにこの先の人生を歩みたいのかを考えた時期がありました。弦楽器奏者であれば室内楽やオーケストラもあるし、一人だけで演奏することは稀です。ピアノ・ソロだと一人で旅をすることも多いし、淋しい人生になる気がしました。その代り膨大な素晴らしいレパートリーと生涯取り組んでいける。最終的には自分が音楽を、ピアノのレパートリーを愛していたということが大きかったですね。またこの頃、ピアノを教えるようにもなりました。教えることで自分より若い世代の演奏家と音楽を分かち合えるし、自分の学んできたことを受け渡していける。教えることで人間としていい経験が積めました。パリに住んでいたのに、毎週飛行機に乗ってニースまで教えに行っていた時期もあります。それに加えて自分の演奏会もあったし、なかなかアクロバティックでした。それと、自分の家族も欲しかった。幸い2人の息子に恵まれて、それ以降はマスタークラスでのみ教えるようになりました。さすがに全部をやるのは無理でした(笑)。

Q お子さんが生まれてからのスケジュールはどのようなものでしたか?

ケフェレック とにかくひとつひとつ片付けていくだけです。多くのことが予測不可能で、急に子どもが病気になったりもするし、近所の方にもたくさん助けてもらいました。子育てだけでなく音楽にも時間を割かなければならないと理解してくれる人がいて助かりました。それに私は子供たちが小さいときから、「君たちが男の子であり、フランス人であるのと同じように、君たちのお母さんはピアニストなの。それは変えられない事実。君たちを育てるためにピアノを辞めてしまったら、そうなったらお母さんはお母さんでなくなってしまう。不完全なお母さんじゃいやでしょう?」って言い聞かせてきました。振り返って考えてみると、いい決断だったと思います。息子たちともいい関係を保てていますし。

Q ご子息も音楽をやっているのですか?

ケフェレック はい。うちは家庭内で14歳までは音楽を必修にして、有無を言わさず楽器をやらせました(笑)。ただしどの楽器を選ぶかは自由だし、どの楽器を選んでも朗らかな先生についてもらうと約束し、14歳になったら自分の意志で続けるか辞めるか選択してもよいということにしました。結局2人ともピアノを選び、とてもいい先生も見つかりました。
とくに長男には優れた才能がありました。若者はみんなそうでしょうけど、彼にも反抗期があって、「ピアノなんて退屈だ!」とよく言っていました。そうして約束の14歳になったわけですけれど、このまま辞めてしまうのは勿体ないと強く思いました。長男はまだ気づいていないけれど、辞めてしまったら人生で大きく損をすることになると思ったんです。プロのピアニストになってほしいという願望はなかったけれど、自分自身の兄弟を見てきた経験からも、あまりに早く楽器を辞めてしまうと大人になってから後悔することを知っていました。そこで私は大真面目になって息子に手紙を書いたんです。確かに14歳になったら辞めてもいいと言ったけれど、そう言ったときは彼にそれだけの才能があると知らなかった。だから長男には母親である私ではなく、あくまでも自分のために続けてほしいと訴えました。母親として伝えられるのは、「いまのあなたが簡単に習得できることは30歳のあなたでは非常に難しくなるか、あるいは不可能になる」ということ。最終的に決断をするのはあなただけれど、大人になってから「あのとき無理にでも続けさせてくれれば」などと言わないでほしい――と。

Q 結局どうなったのですか?

ケフェレック 文句たらたらでしたけど継続してくれました(笑)。あるときショパンの「バラード 第4番」を聴いて天啓を受けたようで、ピアニストへの道を歩むことを決意してパリ音楽院へ進みました。

Q レコーディングについてお話しください。

ケフェレック これについても恵まれていたと言えますね。エラート・レーベルのアーティスティック・プロデューサーが、あるとき私の弾いたスカルラッティのソナタを聴いて気に入ってくださり、録音したらどうかと提案されました。この作品を高く評価していただいたことが幸いして多くのレコーディングにつながりました。どのような作品を録音するかはレーベル側といろいろ話し合って決めますが、自分のやりたいことをたくさんやらせていただきました。最近ではミラーレ・レーベルからリリースしていますが、やはり比較的自由にアルバム作りができます。今度ひさしぶりにスカルラッティの作品集を出すことになりました。555曲もあるから選ぶのが大変でしたけど。

Q ソリストとしての活動と室内楽やその他のバランスはいかがですか?

ケフェレック それは年によりますよね。ただもっと室内楽をやりたいという願望はあります。よりリラックスした環境で音楽を共有できるし、美しい作品がほんとうにたくさんありますから。ソロにしろ室内楽にしろコンチェルトにしろ、ピアノのために書かれた傑作は星の数ほどあります。300歳まで生きられるわけではないので、自分が取り組む作品は慎重に選んでいきたいですね。

(文・構成:柴田泰正 写真:藤本史昭 協力:パシフィック・コンサート・マネジメント)

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