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王子ホールマガジン 連載
ピアノという仕事 Vol.11 

ロバート・レヴィン

ピアノという仕事王子ホールマガジン Vol.39 より

2012年11月、スティーヴン・イッサーリスの相方として、2日にわたってベートーヴェンのピアノとチェロのための作品を披露したロバート・レヴィン。今回はフォルテピアノでの演奏だったが、モダン・ピアノもチェンバロも弾きこなし、さらにはモーツァルト時代の様式に則った即興演奏や作曲・補筆も手掛け、教育者として半世紀近くも第一線に立ってきた。その成功の背後には、ありとあらゆる音楽的要求に応えられるだけの『道具』を彼に授けてくれた名伯楽の存在がある――

ロバート・レヴィン(フォルテピアノ)

モダン・ピアノとピリオド楽器の両方で数々の著名オーケストラ/指揮者と共演。複数のレーベルよりモーツァルトのピアノ協奏曲選集やベートーヴェンのピアノ協奏曲全集、J.S.バッハのハープシコード協奏曲全集、平均律クラヴィーア曲集など多数の録音を発表、2006年にはモーツァルトのソナタ全集第1集を発表した。近現代作品の解釈や室内楽奏者としても定評があり、古典作品における即興的なカデンツァ演奏でも高い評価を得ている。また国際モーツァルテウム財団会員に名を連ね、音楽学者、モーツァルト関連文献の著者、編曲者としても活躍。特に、「レクイエム」(ヘンスラー社)や「ハ短調ミサ」(カールス社)の補筆、「4つの管楽器とオーケストラのための協奏交響曲」の編曲(ザルツブルクでウィーンフィルにより初演)は名高く、各地で演奏されている。2013年春に、20年にわたって勤めてきたハーバード大学を退任する。

 

Q まずはどのようにして音楽と出会ったのかをお話しいただけますか 。

ロバート・レヴィン(以下「レヴィン」) 家では常にラジオと蓄音機から音楽が流れていました。父は当時珍しかった録音装置を持っていて、私が2歳のときの録音がレコードになって残っているのですが、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」の《お手をどうぞ》や、ミュージカル「南太平洋」のナンバーなどを歌っていました。ですから家ではそういった曲がかかっていたのでしょうね。
 母方にジュリアードを出てニューヨーク・フィルのクラリネット奏者となった叔父がいました。彼はフルブライト奨学生としてパリ音楽院に4年間留学していたのですが、両親は彼が帰国すると、息子が四六時中歌っているから聴いてやってくれと話したそうです。叔父は私の音楽的能力をチェックして、絶対音感があることを見抜きました。それから聴音やピアノのレッスンなどをしてくれるようになり、私もすっかり音楽に夢中になりました。そうして12歳になった私は、聴音の先生の勧めによってフランスのフォンテーヌブローで開かれる夏季学校でナディア・ブーランジェの指導を受けることになったのです。

Q ナディア・ブーランジェといえば西洋音楽史上で最も高名な教育家といえる人物ですが、どんな教育だったのですか?

レヴィン ブーランジェ先生は数々の伝説的演奏家だけでなく、エリオット・カーターやアーロン・コープランド、それにアストル・ピアソラやフィリップ・グラスといった作曲家、そしてマイケル・ジャクソンの「スリラー」をプロデュースしたクインシー・ジョーンズまで教えました。そんな先生に学ぶというのは、何歳であっても人生を変える出来事になるでしょうけれど、それが12歳のときですからなおさらです。私のお婆ちゃん代わりとなって面倒をみてくれるときもありましたが、何しろ厳格な先生で、ストラヴィンスキーのオーケストラ譜を初見で完璧にピアノで演奏できないと容赦なくゲンコツを叩きこむような人でした(笑)。

Q ブーランジェ先生には何年ぐらい師事されたのですか?

レヴィン 5年以上です。フォンテーヌブローで夏のコースを履修し、14歳からは単身パリで生活してレッスンを受けました。私の両親は片手間で音楽をやらせようとはしませんでした。放課後にちょっと稽古をするぐらいのことを一生の仕事にしようとは思わないだろうから、いちど徹底的に音楽をやらせようと考えたわけです。そうやってまず1年勉強させてみれば、自分は音楽家になるのだという決意を固くするか、これは辞めておこうと思うようになるか、いずれかであろう――と。結局両親の読み通りでした。1年勉強して地元に帰ると、同年代の若者は将来についてほとんど見えていなかったのに、自分は明確にビジョンが描けていましたた。理解ある家族がいて、最高の先生に教わることができた自分は本当に恵まれていました。

Q 十代前半という若い年齢から留学したことは、もっと年齢を重ねてから行くよりもよかったと思いますか?

レヴィン ずっとよかったと思います。というのも若い間はまだ素直ですから、先生が火の輪を指さして「くぐれ」と言えば、それについてあれこれ質問したり気負ったりすることなく、がむしゃらにそこへ飛び込めるんです。失敗したら失敗したで、ひとしきり泣けばいい。たとえば自分が30歳になっていたら、泣いて済ませるわけにはいきません。
 留学中はとにかく火の輪くぐりをするのに忙しかった。オルガンの勉強をしたときなどは10本の指で同時に6つの異なるリズムを演奏しなければならなかったり、とにかく尋常ではない課題をこなしていました。その課題が何を意図していたのか、それを身につけることで自分がどう変化するのかは分からなかった。しかし後年、16歳でハーバードに入学したときに、自分が周りの学生よりもはるかに進んだスキルを身につけていることを知りました。ブーランジェ先生は教え子に、その生徒それぞれが抱えられるギリギリの大きさの「道具箱」を与えてくれました。その道具箱のなかには、音楽家として生きていくうえで必要なありとあらゆる道具が詰まっていたのです。

Q 20歳でハーバードを卒業なさってからは、異例の若さで教育者としてのキャリアを築いてこられましたね。

レヴィン 私がハーバードの学部を卒業したのは1968年、ベトナム戦争が泥沼化していたころで、大学を卒業した若者は次々にジャングルへと送り込まれていました。私には兵士になるだとか、人を殺すだとかいうことはまったく考えられなくて、かといって徴兵を避ける有効な手立てなどなく、前線送りは時間の問題でした。そんなある日、フィラデルフィアから一通の手紙が大学に届きました。瀟洒な封筒を開けると、それは驚いたことにルドルフ・ゼルキンからの私信でした。しかもカーティス音楽院の楽理科の主任にならないかというお誘いだったんです。私は電車に飛び乗ってフィラデルフィアへ行き、将来の音楽家を目指す学生は何を学ぶべきか、学生のためにどんなプログラムを組むべきかについてゼルキンと2時間あまり語り合いました。そこで私が話した内容のほとんどは、当然のことながら私自身が受けてきた教育、すなわちブーランジェ先生の教育に基づいたものでした。そしてゼルキンは、「私はナディア・ブーランジェを信じているし、君こそがこの職に適した人材に違いない」と言って私を採用してくれました。生徒の半数以上は自分よりも年上ですし、楽理科の教師を雇ったり、使用する教科書を共同執筆したりと、いきなりたいへんな責任を負うことになりました。不安でしたよ。私は当時20歳で、見た目は14歳ぐらいでしたから(笑)。

 カーティス音楽院では5年間、続いてニューヨーク州立大学パーチェス校で教えるようになり、1979年からはブーランジェ先生の後継者としてフォンテーヌブローの教育プログラムも受け持つようになりました。ブーランジェ先生は、生徒に音楽家として何をすべきかを命じることはありませんでしたが、常に考えてはいたようです。生徒の長所を考え、それを活かせるよういろいろと手を打っていた。カーティス音楽院での職を与えるために根回ししてくれたのもそのひとつです。先生は私のピアノ演奏を聴き、私の書いた曲を見てきて、どこかで私の天職は教育だと考えていたのでしょう。それが実現するように環境を整えてくれた。そうして私はもう45年も教鞭をとっています。

Q 教育者・研究者であると同時にコンサート・ピアニストとしてのキャリアも確立されていますが、演奏家としてのターニング・ポイントになるような出来事はありましたか?

レヴィン 1974年に私はフォンテーヌブローでピアノ・リサイタルを開き、ブーランジェ先生を招待して、敢えて先生が大好きな曲を2つと、先生が大嫌いな曲を2つ演奏しました。「はじめてあなたに会ったとき、あなたが生まれながらの音楽家であることは分かったわ。でもあなたがピアニストであるかどうかは定かでなかった……あなたはやっぱり、ピアニストね」。演奏会の後で楽屋に来た先生は、そう言って私を抱きしめてくれた。涙が止まりませんでした。
 そんなわけで、まずは音楽の教師としてスタートし、徐々に演奏家としてのキャリアがそれを上回るようになっていきました。このところはずっと演奏家としての比重が大きい状態が続いています。

Q 実演や教職や作曲など活動は多岐にわたりますが、理想的なバランスはとれていますか?

レヴィン 理想的といえることは決してないかもしれませんね。3足のわらじを履いていると、ひとつのことに集中しようとしても別の仕事がどうしても気にかかる。私は起きてから寝るまで働きづめです。練習して教えて研究して作曲して……やることが山積みですが、その分満足度も高い。2013年の春以降はハーバードでの教職がなくなるので、もう少しゆとりのある生活ができるでしょうね。

Q レヴィンさんはモダン・ピアノだけでなく様々なピリオド楽器も演奏されますね。

レヴィン 私の自宅には3台のスタインウェイのほかにフォルテピアノが数台とチェンバロがあります。「古楽器を演奏するならわざわざモダン楽器をやらなくてもよいではないか」と批判されることもありますけれど、人生には様々なニュアンスがあっていいはずです。スタインウェイでバッハやモーツァルトやベートヴェンを弾く場合でも、これまでに様々な楽器に触れ、多くを学んできたおかげで、若いころとは違った弾き方ができるようになりました。

Q では若いピアニストにもピリオド楽器に触れることをお勧めしますか?

レヴィン もちろんです。今回の来日の直前にはライプツィヒでマスタークラスがありました。そこではスタインウェイのほかにフレンチ・タイプのチェンバロを2台、ジルバーマン・ピアノを1台、それと19世紀初頭のピアノを用意してもらいました。聴講生にスタインウェイで弾かれるバッハ、ジルバーマンで弾かれるバッハ、チェンバロで弾かれるバッハを聴き比べ、それぞれの楽器の音響、タッチ、テクスチャー、バランスといったもの比較してほしかったのです。これは非常に有益なことです。「自分は生涯モダン・ピアノを弾くのだ」と決意を持つことは構わないのですけれど、作曲家が耳にしていた音がどんなものであったのかは知っておくべきでしょう。たとえば現在のピアノは低音の弦が中・高音域の弦の上に覆いかぶさるように張られている『交差弦』タイプですが、フランスの印象派が活躍した時代などは『平行弦』のピアノが主流でした。この違いは大きいですよ。そういった背景を知ったうえで自分が何を採り入れ、何を排除するのかを決めればよい。ひたすらスタインウェイばかり弾いていたら、楽器の発展過程や音の出し方、ハンドリングに関する知識が乏しいままになってしまう。

Q 現在の音楽教育やピアニストの育成について何か思うところは?

レヴィン ピアニストの技術面の向上はすさまじいものがあります。1950年代、ラフマニノフの協奏曲第2番を弾ける人間は両手で数えられるぐらいしかいなかった。それが今ではどんな国際コンクールに行っても10人以上がそれを演奏する。世界は一変したんです。しかし大きい音で弾くこと、速く弾くこと、正確に弾くことばかりに重きが置かれているようにも思えます。ブーランジェ先生は音楽の言語を理解することの大切さを教えてくれました。書かれた音符を再現するばかりで、その意味について注意を払わないというのは問題です。驚くべき技量で演奏できるというのは、エキサイティングではあるけれども、必ずしも感動的ではない。人に影響を与えられる、力のある演奏をするには、音楽学校で高い評価をもらうための勉強以上の何かが必要です。
 この世の中、振り子のようにトレンドが変わりますから、クラシック音楽というものが文化から消え去ってしまわない限り、今とは逆の動きが生まれるかもしれません。演奏家としての私は、全身全霊で演奏をするのみです。それを聴いて、単に技巧が優れているだけの演奏との違いを感じ取ってほしい。ステージに出るときはいつもそう願っています。

(文・構成:柴田泰正 写真:藤本史昭 協力:KAJIMOTO)

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