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インタビュー クリスティアン・ゲルハーヘル&ゲロルト・フーバー
緊密な協力関係の先に見据える「永遠」

王子ホールマガジン Vol.35 より

クリスティアン・ゲルハーヘル(バリトン)

医学を学びながら、フィッシャー=ディースカウ、シュヴァルツコプフらのマスタークラスを受講し、声楽も学ぶ。リートの分野で幅広く活躍する一方、これまでにアーノンクール、ブロムシュテット、ラトル、ヤンソンス、ハイティンク、ブーレーズ、ティーレマンといった著名な指揮者と世界中の主要なホールに出演。ベルリン・フィル、ウィーン・フィル、ミュンヘン・フィル、コンセルトヘボウ管には定期的に招かれている。オペラ作品にも数多く出演しており、特にフランクフルト歌劇場には頻繁に出演。パートナーのフーバーと録音したシューベルトの三大歌曲集やシューマンの歌曲集をはじめ、オーケストラとの作品も多数リリースしている。現在は欧米でマスタークラスを開催するほか、名誉教授としてミュンヘン国立音楽大学にてワークショップを行っている。

 

ゲロルト・フーバー(ピアノ)

奨学金を得てミュンヘン国立音楽大学に進み、ピアノをフリーデマン・ベルガー、リート伴奏法をヘルムート・ドイチュに師事。その後ベルリンのフィッシャー=ディースカウのリートクラスで学んだ。1998年にゲルハーヘルと共にパリ・ニューヨーク国際プロ・ムジシス賞を受賞、パリとニューヨークのカーネギーホールでコンサートを行った。ゲルハーヘルの他にも、ディアナ・ダムラウ、モイツァ・エルトマン、ルート・ツィーザック、ベルナルダ・フィンク、ローランド・ヴィラゾンなど多くの声楽家の伴奏を務めており、リリースしたCDの多くが賞を受けるなど高い評価を受けている。シューベルティアーデ、シュレスヴィヒ・ホルシュタインをはじめとする著名な音楽祭に参加するほか、各国の著名コンサートホールに客演。イェール大学、アルデブルク音楽祭、シュヴェッツィンゲン音楽祭でマスタークラスを開催している。

 王子ホールの舞台は、不思議な空間である。日々全身全霊を込めて音楽を奏でる演奏家のための、決して広からぬ、かといって狭過ぎもしないその空間。繰り広げられる音楽のスケールに応じて、広く見えたりも、狭く見えたりもする。変幻自在、融通無碍、このホールに足を運ぶたび、そんな思いにとらわれることは一再でない。

 だが、2011年12月、そろそろ底冷えの厳しくなってきた銀座界隈に現れた、ドイツ南部・バイエルン育ちの二人のアーティストは、実に大きく見えた。いや、実際に大きいのは確かである。ゲルマンの血を引く逞しい体格と骨太な男二人が登場すれば、この舞台は圧倒されるような存在感に支配される。

 日本にとって、世界にとって忘れられない年となった2011年は、また奇しくもグスタフ・マーラーの没後100年でもあった。クリスティアン・ゲルハーヘルとゲロルト・フーバーの二夜にわたる演奏会は、その交響曲・歌曲がこぞって演奏された年の締め括りとしては、これ以上ないほどに相応しいものとなった。筆者が聴く機会に恵まれた第2夜で披露されたのは、ピアノ版《大地の歌》第2楽章と「最後の7つの歌」を前半に、そして長大な《大地の歌》第6楽章のみを後半に置く、いまのゲルハーヘル以外には決して真似のできないプログラム。雄大な世界観と悠久の時を刻むような曲想。マーラーは、その曲想を、熟達した職人の手さばきをもって、歌とピアノという細密画の世界に埋め込んで見せた。

 そう、それはまるで、いままで記憶の奥底にしまいこんでいた昔の記憶が、視角・聴覚を伴う強烈な実感とともに甦ってきたような体験、と形容すべきだろうか。ゲルハーヘルが細かな感情の襞にまで入り込み、その微細な違いを描き分けると、フーバーは敢えて真逆の大胆きわまりない、ぞんざいな音色で応えてみせたりもする。逆にフーバーが消え入るようなピアニッシモでマーラーが描こうとした「永遠」の世界へと近づこうとすると、そんなものは幻想に過ぎないとばかりに、ゲルハーヘルが醒めた一言で返す。お互いが綱引きを繰り返すことで、マーラーの世界には立体感と奥行が生まれ、舞台上の二人の姿はさらに存在感を増して大きく見える。舞台が狭く感じるのか、二人が大きく感じるのか、いずれにせよ、二人は王子ホールの空間に、紛れもなくマーラーが閉じ込めたはずの「永遠」を召還したのだ。

 クリスティアン・ゲルハーヘルが知性派であることは、本稿の読者にもとうにご存じのことだろう。自身がてがける録音には詳細な、しかもそのまま学術論文としても遜色ないほどの本格的なライナーノーツをよせる彼のこと、きっとその手の話題を聴けば、話題はいつまでも尽きなかったはずである。だが、筆者はその演奏を聴いて、むしろピアニスト、ゲロルト・フーバーとの関係に興味が湧いた。演奏にあたって学術的なアプローチを試みることももちろん重要なのだが、ほとんど正反対と言ってもよいような個性に彩られた二人の人間が、いかにしてあれほどまでに質の高い共同作業を、しかも長年にわたって続けることができるのか。その終演後、ともに焼肉をつつきながら、その幼少期から遡って話を聞いてみた。

 焼肉を食べる段階からして、二人の個性の違いは際立っている。いま自分が食べようとする肉はどの部位なのか、辛くはないのか、サンチュを見て「これはどのようにして食べるのか?」と、口に入れるものを事前に吟味しまくるゲルハーヘル。「日本のビールうまいよな!バイエルンのビールもいいけれど、俺この味が大好きなんだよ」といいながら、率先してなんでも試し、口に入れてしまうフーバー。そんな二人は若い頃から友人なのだという。

ゲルハーヘル 「我々二人は、バイエルン州のシュトラウビンクという街の出身なんです。レーゲンスブルクから40キロほど東に離れた街で、チェコとの国境にも近い。知り合ったのは……」

フーバー 「確か16歳の時じゃなかったかなあ。」

ゲルハーヘル 「学校は別だったけど、街のオーケストラに、ゲロルトが来たときに会ったんだよ。」

フーバー「ヴァイオリンとヴィオラを弾くんだけど、そのときは確かコントラバスだった」

ゲルハーヘル 「で、別の機会には、アマチュアの合唱で隣同士に座ったんだ。」

フーバー 「その時以来の腐れ縁だよな(笑)。で、大学に入るために一緒にミュンヘンにやってきて、それ以降はお互いにずっとミュンヘンに住んでる、というわけだ。」

ゲルハーヘル 「まあ、ミュンヘンだけじゃなくて、ベルリンでも学んだわけですけれどね。」

フーバー 「コイツは医学の勉強まで一緒にやってたからな。ホントよくやるよ。」

ゲルハーヘル 「医学のほうは授業を聴いただけ、かな。その頃からオペラの舞台で歌うのも好きだったけれど、どちらかと言えば歌曲のほうに興味が向いていたような気がします。」

 ……と、何を訊いても、二人はまるで息の合った漫才のように、楽しく話を聞かせてくれる。もっとも、マジメに来歴を話そうとするゲルハーヘルを、フーバーが常に茶化そうとする、という構図になってしまうのではあるが。静のゲルハーヘルと動のフーバー、ボケとツッコミ(!)、ユーモア溢れる会話のうちに、二人の揺るがぬ信頼感が言葉の端々から窺える。話はいつしか、彼らがともに学んだ恩師であり、多大なる影響を受けたドイツ歌曲の巨人、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウへと移っていった。気楽な気持ちで話してくれて構わない、とお願いしていたにもかかわらず、やはり真面目な話題へとシフトしていくのは、ひとえにゲルハーヘルの音楽に対する情熱の故だろう。

ゲルハーヘル 「そう、はじめにフィッシャー=ディースカウの存在を知ったのは、CDなどの録音だった。当然だけど、ものすごく感動したなあ。ベルリンで知り合って彼の考え方とか哲学を吸収したわけだけれど、あの人はとにもかくにもまず「演奏家」としての自己があり、「教育者」として学生に接することはありませんでした。ですから、歌唱の方法とか、具体的なことを習ったわけではないのです。重要だったのは……」

フーバー 「(ここで口を挟む)彼がよく強調していたのは、テクストが聴き手にわかるように歌う、語るように話す、っていうことだったよな。で、その歌が自然に聞こえること、自然でありながらも一個の芸術作品として成立していること。それが重要だ、とね。」

ゲルハーヘル 「といっても、完全に語り言葉のようになってしまってはいけないんだよ。その言葉が自然に生まれ出るように仕向けなくてはならない。一つの言葉から他の意味合いが生まれ出るように、詩の中に秘められた意味が自然とあふれ出てくるような歌を目指さなくてはならない、とね。」

フーバー 「それはそうだけれど、テクストの意味を拡げ、理解できるようにしつつ、音楽そのものを邪魔してはいけない。それがとても重要なポイントなんだよ。」

ゲルハーヘル 「音楽は時に埋没してしまうからね。ピアニストの弾く音楽はどうしても、あまり個性のないものになってしまいがちになる。もちろん歌曲において、ピアニストによる「伴奏」があまり前面に出てこないのが当然、という考え方もありますが、我々二人の場合はありがたいことに、そういう考え方とは無縁だからね。」

フーバー 「いま「そこ」にある音楽は何にも増して重要だよ。」

ゲルハーヘル 「もちろん、歌曲における「音楽」というのは、もちろんいわゆる一般的な意味での「音楽」と少し異なるのはいうまでもありません。誤解を怖れずに言えば、テクストそのものはそれほど重要ではない、と言ってしまってもよい。歌手がやるべきことはむしろ「物語を語る」ことなのかもしれないね。抽象的な言葉をただ声に載せて響かせても、何の意味もないことだよ。」

 「これこれ、この漬け物大好きなんだよ!」とキムチを頬張りながら、「ミュンヘンの家の庭で、うちの子供たちと、こんなうまい肉でグリルパーティーをやってみたいよな!」と豪快に笑うフーバーの傍らで、iPhoneにかかってきた奥さんからのおやすみコールに相好を崩すゲルハーヘル。わずかな休暇中にはスキーやテニスを嗜む、ドイツ人ならではの行動的な性格は両者ともに共通している。そんな行動的な性格があるからこそ、「いま日本は地震や原発事故で大変なときであり、だからこそいま我々がここに来ることに意味がある」と、来日の理由を真摯に語ってくれたりもする。そんな話をするときはかならずビールを傍らに置き、相手の目を見る二人。何事に対しても全力投球せねば気がすまない性格だからこそ、二人はいま歌曲の世界を極め、さらなる高みへと登り詰めようとしているのだろう。

 なにもかも正反対に見える二人だが、そんな正反対な二人だからこそ、だが音楽に対する考え方の根源的な部分を共有する二人だからこそ、長年にわたって信頼関係を築き上げることができた。磨き抜き、考え抜いた解釈を世に問い、そしてその次元を突抜け、《大地の歌》終曲に鳴り響く「永遠」の音楽の神髄を掴み取った。バイエルンから来た二人の巨人、ゲルハーヘルとフーバーが、銀座の地で再び、ドイツ歌曲の新たな魅力を披露してくれるその日がいまから楽しみでならない。

(インタビュー・文:広瀬大介 写真:横田敦史
  協力:カメラータ・トウキョウ)

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