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王子ホールマガジン 連載
ピアノという仕事 Vol.16 

ジュリアス・ドレイク

ピアノという仕事王子ホールマガジン Vol.44 より

4月に来日しイアン・ボストリッジのパートナーとしてブリテンとヴォルフの歌曲集を披露したジュリアス・ドレイク。歌曲のスペシャリストとして名の知られている彼だが、著名コンクールに優勝して華々しくデビューしたわけではない。王立音楽院在学中に室内楽に目覚め、その後地道にキャリアを積んできた、いわば「たたき上げ」のピアニストだ――

ジュリアス・ドレイク(ピアノ)

ロンドン生まれ。室内楽のスペシャリストとして、世界の多くの一流声楽家、器楽奏者と共演している。近年はオールドバラ、エディンバラ、ミュンヘン、ザルツブルク、シューベルティアーデ、タングルウッド音楽祭に登場し、ニューヨークのカーネギーホール、リンカーンセンター、アムステルダム・コンセルトヘボウ、パリのシャトレ劇場、ウィーンのムジークフェライン、コンツェルトハウスなどで演奏している。ロンドン王立音楽院の教授を務めるほか、定期的にマスタークラスも開催しており、2009年にはリーズ国際ピアノ・コンクールの審査員を務めた。多くの著名演奏家とアルバムを録音しており、去る4月に共演したイアン・ボストリッジとはシューマン歌曲集や2枚のシューベルト歌曲集を含む多くのアルバムをリリースしている。

Q 音楽との出会い、ピアノを学び始めたきっかけについてお話しいただけますか。

ジュリアス・ドレイク(以下「ドレイク」) 母は音楽が流れてくると何をしていても聴き入ってしまうような人で、私もまったく同じです。音楽への愛は間違いなく母親から受け継ぎましたね。ピアノを習いはじめたのは7歳ぐらいのときで、当時のイギリスでは標準的でした。私は習いはじめたときからピアノが大好きで、ほかのどんな教科よりもピアノが好きだと小さいときから自覚していました。その様子を見て両親は私を音楽学校に行かせる決心をしました。ちょうどロンドン市内の実家近くにそういった学校がありました。現在はパーセル音楽学校と呼ばれていますが、当時はCentral Tutorial School for Young Musicians(若年音楽家のための中央指導学院)という、ソビエトの養成機関のような名前でした(笑)。
 入学したのは12歳のときです。全校生徒100人弱の小さな学校で、十分に楽器を練習できる環境が整っていました。私は練習が大好きだったのでありがたかったですね。先生も熱心に指導してくださって、十代のうちにベートーヴェンのソナタをひと通り学ぶことができました。ソロ・ピアノのレパートリーはかなり広範囲に勉強しましたよ。反対に室内楽は一切やらず、16、7歳まではソロに集中しました。

Q その後ロンドンの王立音楽院に進学されたわけですが、パーセル音楽学校時代に自分の将来について迷ったりはしませんでしたか?

ドレイク 音楽をやりたいという点に関して疑念を持ったことはありません。両親は私の音楽への情熱を見抜き、音楽の道へ進めるようにしてくれました。その点で自分はとても幸運だと思います。音楽で食べていくなんてとても不安定なことですし、子供に音楽を仕事にしてほしくないと思う親は多いはずです。定収入を得られる保証すらありませんから。

Q 王立音楽院での生活はいかがでしたか?

ドレイク パーセル音楽学校に行ったことで、一般の学校に進学していたら不可能なほどの時間を練習に充て、それによってソロ・ピアノのレパートリーを拡げることができました。王立音楽院に入学したころには、ほとんどの学生が入学してから本格的に学び始める作品をひと通り学び終えていました。
 王立音楽院に入学して初めての学期に、学友のクラリネット奏者と共演する機会を得ました。室内楽はそれまでやってこなかったのですが、弾き始めてすぐに『これに生涯をかけたい。自分がやりたいのはソロ・ピアノではなく、室内楽だ』という、いわば一種の啓示を得ました。こうした確信に至ったのも、パーセル音楽学校でソロ・ピアノに集中して取り組んだからといえます。もちろんピアノという楽器を愛しているし、ソロ・ピアノの作品も大好きですが、18歳で初めて室内楽に触れたときから、自分は室内楽を生涯の仕事にしようと決意したのです。
 それからというもの、自分ひとりでステージに出て演奏をすることがどうも不自然に感じるようになってしまいました。自分にとって音楽とは、分かち合うことです。自分のアクションに共演者が反応し、共演者のアクションに自分が反応する――それによって音楽に生命が与えられることが室内楽の理想とする姿だと思いますし、それが私の愛する音楽のかたちです。

Q 演奏会デビューはいつごろでしたか? またプロとしての活動はどのように始まったのですか?

ドレイク 学生の間は校内での発表会がありますから、そういった場所では昔から演奏していました。自分にとって一番緊張を強いられる舞台でしたね。十代のときは同級生の前で演奏するのがとにかく嫌で、振り返ってみると自分の人生で一番神経をすり減らした演奏会は、学生のころの校内演奏会でした(笑)。でも場数を踏むにしたがってそうしたアガリ症も克服していきました。緊張感は経験を積むことでコントロールできるようになるものです。
 プロとしての活動は――王立音楽院在学中に知人のピアニストから、駐クウェートのイギリス人アマチュア音楽家がオッフェンバックの「天国と地獄」を上演することになり、ピアニストを求めているという話を聞きました。仕事をして報酬を得た経験のない自分にとっては貴重な機会だったので、飛行機に乗ってクウェートまで飛び、アマチュア歌手の指導をしました。ギャラの発生した仕事はこれが初めてでしたね。
 そして王立音楽院卒業後、ちょうど一緒に室内楽をやりはじめたオーボエ奏者のニコラス・ダニエルがBBCヤング・ミュージシャン・オブ・ザ・イヤーを受賞しました。それによってイギリス各地のミュージッククラブで演奏の機会を得ました。非常にいいスタートを切ったといえますね。留学するという選択肢もありましたが、ロンドンにとどまってコンサートに出演するほうを選びました。21歳で王立音楽院を卒業してすぐに演奏で生活の糧を得られるようになったわけです。そして私の演奏を聴いた方から別の演奏の機会をいただいたり、他の演奏家と知り合うようになったりと、少しずつ活動の幅が広がっていき、プロの音楽家としてのキャリアを拓いていきました。

Q 今では歌手との共演が大半だと思いますが、当初は器楽奏者との共演が多かったんですね?

ドレイク 歌手と共演するようになったのは、20代半ばで出演したオールドバラ音楽祭がきっかけです。そこでピアノ三重奏を演奏したのですが、後日事務局の方から、歌手のためのマスタークラスで伴奏をやってほしいという依頼を受けました。教授陣はピーター・ピアーズやナンシー・エヴァンスといった錚々たる面子です。素晴らしい機会だと思って引き受けました。そしてこのマスタークラスを通じて歌曲の世界を知り、綺羅星のごとき名曲の数々に心を奪われました。思えばこれが人生のターニングポイントだったともいえますね。
 歌曲のどこに魅力を感じたのか。まず言葉です。音楽だけでなく、言語を学び、その言語の特質を知り、歌手とともに詩の意味を紐解いていく。そうした作業を通じて音楽に、そして詩に生命を与える。それが何よりの喜びです。
 そんなわけで若い音楽家と共演をするようになり、「動物園(ルビ:メナジェリー)」という名前のグループを作りました。このグループでは、毎回動物をテーマとした器楽曲や歌曲や読み物をプログラムに入れて、各地のミュージッククラブで演奏しました。シリアスな歌曲もあれば、軽い内容のときもあり、ゲストも歌手であったり役者であったりしました。そしてこの活動を通じてさらに多くの歌手と知り合うことになったわけです。

Q 先ほどから何度か言及されているミュージッククラブというのはどういう組織なのですか?

ドレイク イギリス独自の存在かもしれませんね。音楽愛好家がサークルを作って地元に音楽家を呼び、地元の会場を使って演奏会を開くんです。イギリス各地にこうしたサークルがあり、若い演奏家がキャリアをスタートさせる足がかりになっています。今では数が減っていますけれど、まだまだ存在していますし、若手にとって貴重な演奏機会を提供しています。
 自分という存在を認知してもらうまでには、かなりの時間がかかるものです。そうなるまでに大切なのは、より良い演奏家になるよう努力することです。私はたくさん練習することを自分に課しています。可能な限り高いレベルで演奏したいというのはもちろん、多くの人と共演するからです。多くの人と共演するということは、それだけ多くのレパートリーをこなすということでもあります。例えば同じシューベルトの三大歌曲集にしても、テノールと共演するときとバリトンと共演するときではキーが異なる。そういった変化にも対応しなければならないわけです。
 生徒たちにも言っていますが、自分のポテンシャルに迫りたければ努力を欠かしてはなりません。自分にどれだけ才能があるかは別として、その才能をフルに活かすには努力し続けるしかない。演奏する作品に見合う音楽家であろうとするならば、常に向上を図るべきでしょう。

Q 生徒、というお話をしましたが、教えるようになったのはいつからですか?

ドレイク 20代のころから教えていました。コンサート活動と並行して大人のピアノ初心者を教えていて、これも重要な収入源のひとつでした。ピアノは大人になってからはじめても、あるいはブランクを置いて再開してもいいものだと思います。大人になると腕も指も硬くなってしまうけれど、力を抜くことを意識すれば弾けるようになりますよ。
 その後30代に入ると王立音楽院からコレペティトゥアのオファーがきまして、その後ピアノ伴奏科の教授職を得ました。ここ5年ほどはオーストリアのグラーツで教えています。というのも私は昔から「担任クラス」というドイツ式の教育方式に興味があったんです。これはイギリスにはないシステムです。イギリスでは生徒に個人レッスンをつけて、教えた時間に応じて報酬が与えられます。一方ドイツ式のシステムでは自分が受け持つクラスがあり、それに対して一定の報酬を得ます。このクラスでは各自が個人レッスンを受けつつ、同門の他の生徒のレッスンを聴講するのです。私は大学院の生徒を6人受け持っていて、毎月グラーツで指導しています。このシステムがなぜ独墺で根付いてイギリスで根付かなかったか不思議ですね。

Q レコーディングなど、その他の活動についてお聞かせください。奨学金制度をお作りになったそうですね。

ドレイク 母がガンで亡くなったときに、母の名を残すために基金を設立しようという話になり、ウィグモア・ホールを借りてガラ・コンサートを開催しました。友人がたくさん協力してくれたおかげでかなりの金額を集めることができたので、それをもとに基金を設立しました。この基金を通じて「声楽のパートナーとしてのピアノ」を意識させる活動を表彰しています。レコーディングでいうと、ハイペリオン・レーベルからリストの歌曲全集を制作しているほか、コンセルトヘボウでシューマンの歌曲集を録音する予定もあります。またロンドン市内のミドルテンプル・ホールで著名歌手を招いて開催している歌曲シリーズも面白いですね。ここは16世紀の建物で、シェイクスピアが「十二夜」を初演した場所として知られています。かつてはテンプル騎士団が大食堂として使っていました。歴史が詰まった素敵な空間で、驚くほど歌に適しているんです。

Q この先ピアニストとしてやりたいことはありますか?

ドレイク 器楽奏者との共演は積極的にやっていきたいですね。室内楽の音楽祭に呼ばれたときは、必ず器楽奏者と共演するようにしています。私は歌曲を専門にやっているわけではないんです。でもあるジャンルを多くやっていると、そこで名前が知られるようになる。私の場合はそれが歌曲だった。そうなると必然的に歌手から声がかかることが多くなります。もしヴァイオリン・ソナタをたくさん弾いていたら、ヴァイオリニストから声がかかることが多くなっていたでしょう。
 個人的には「伴奏」という考え方があまり好きではないんです。たとえばヴィエニャフスキのヴァイオリン・ソナタなど、ヴァイオリンの超絶技巧を聴かせるための作品であれば、隙間を埋めるのがピアノの役割ということになる。でも歌曲の場合は、言葉とピアノの両方があって初めて成立する。もちろん視覚的注意をひくのはもっぱら歌手でしょう。でも音楽はピアニストと歌手の両方から流れてくるし、それが融けあって音楽になる。ですから歌曲もいわゆる室内楽のひとつとして考えるべきだし、たとえばイアン・ボストリッジのようなスーパースターと共演するときでも、単に「イアン・ボストリッジ・ショー」にならないように、ピアニストがすべき仕事を懸命にやるしかない。もちろん、スターと呼ばれる歌手の方々も楽器と声があってはじめてリサイタルが成立するのだということを、よく理解しています。声とともに音楽をつくる、そのためのピアノ演奏。これは生涯をかけて探究する価値のあるものです。

(文・構成:柴田泰正 写真:藤本史昭 協力:パシフィック・コンサート・マネジメント)

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